忌野清志郎の死因はタバコ?

忌野清志郎さんは咽頭がんを患っていました。

そこから別の部位にもがんが転移していったのです。

忌野清志郎さんの闘病生活について、まとめました。

 

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忌野清志郎の経歴プロフィール

名前:忌野 清志郎(いまわの きよしろう)

本名:栗原 清志

別名:肝沢幅一、ボス

生年月日:1951年4月2日

2009年5月2日死去。享年58歳

出身地:東京都中野区生まれ、東京都国分寺市育ち。

国分寺市立第三中学校卒業

東京都立日野高等学校卒業

職業:ロックミュージシャン

 

 

忌野清志郎さんは、3歳の時に母を亡くし、その後は伯母夫婦に引き取られ養子として育てられます。

国分寺市立第三中学校在学時にエレキギターブームの刺激を受けカバーバンドを結成し音楽活動を開始。

高校時代は学校に馴染めず物静かな少年だったそうですが、音楽活動は高校時代も高校卒業後も続きます。

 

 

 

バンドの解散と再結成を繰り返し、1970年「RCサクセション」というフォークグループでシングルデビューをします。

デビュー作は「宝くじは買わないで」という曲です。

 

 

1972年「ぼくの好きな先生」というシングルがヒットしたものの、後が続かず事務所関係とのトラブルもありバンド活動は長期にわたり低迷します。

ようやく1978年半ば頃から少しずつライブハウスなどで人気が出始めます。

奇抜で独特の風貌になったのはこの頃だそうです。

 

 

 

その後は1980年「雨上がりの夜空に」や「トランジスタ・ラジオ」などが大ヒットし人気が出て一般的にも知られるようになりました。

しかし、事務所への不満での独立やバンド活動の低迷、メンバーの崩壊などいろいろなトラブルを繰り返し1991年RCサクセションは無期限の活動休止を発表する。

この際に個人事務所「ベイビィズ」を設立しさまざまなバンドを渡り歩き俳優活動なども開始します。

その後もテレビ出演などで物議を醸すなどトラブルは絶えず、一切テレビに出なくなり活動はライブ中心に戻ります。

ライブでは戦争や原発に対して強い反対を感じる歌を歌い続け、いつのまにか、忌野清志郎さんはカリスマ的存在になりました。

 

 

 

忌野清志郎さんは、家族のことは、あまり公表しておらず死後に既婚だったということがわかりました。

忌野清志郎さんは、高校時代の美術教師を生涯の恩師としており、その教師から「やりたいことがあるのなら結婚はするな」と言われていたため、30代まで独身を貫いていたと言われています。

長年ファンであったという景子さんと30代半ば頃に結婚し一男一女が生まれる。

息子は栗原 竜平さん、娘は栗原 百代さん。

竜平さんの方は「Bady#1」、百代さんは「プリプリ・ベイビー」どちらも忌野清志郎さんの歌でコーラス参加をしていたそうです。

 

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忌野清志郎のガンの種類

咽頭ガン

 

忌野清志郎の死因はタバコ?

忌野清志郎さんの命を奪った、咽頭ガン。

咽頭ガンは喫煙とアルコールが深く関係しており、患者の90%以上が喫煙者と言われています。

忌野さんも例外ではなく、煙草を愛飲されていたようです。

 

 

タバコTOP10を選んだ動画がありました。

 

 

 

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忌野清志郎の闘病生活

ファンの中ではカリスマ的存在になっていた忌野 清志郎さん。

2006年7月13日咽頭ガンの治療のため入院することと、すべての音楽活動を休止することを公式ウェブサイト「地味変」で発表されました。

医師からは手術を勧められますが、手術をするとミュージシャンの命ともいえる声を出せなくなるという理由で化学放射線治療を選択されます。

しかし、この治療をしていると唾液が出にくくなったため歌いにくくなると判断。

化学放射線治療は入院後2週間ほどで途中拒否され、玄米菜食という食事療法など代替治療に切り替えられます。

 

 

その後、2007年石田長生さんのライブにシークレットゲストとして出演。

それ以来、少しずつ音楽活動を再開されました。

2008年2月10日には、日本武道館で忌野清志郎完全復活祭を開催し完全復活を遂げられます。

しかし、約5ヶ月後の2008年7月14日、左腸骨へガンが転移したことを公式ウェブサイト「地味変」で発表され、再び活動を休止されます。

 

忌野清志郎の晩年

2008年7月、左腸骨へガンの転移が発覚し再び音楽活動を休止された忌野清志郎さん。

通院にて治療をされる一方で他の楽曲の提供などは変わらずされていて、他のミュージシャンのレコーディングにも参加されていました。

しかし、キャンペーンソング「oh!RADIO」を書き上げた後、2009年2月体調が悪化。

東京都内の病院に入院され治療をされていましたが、3月にデビュー39周年記念イラストをファンに向け書き、これが最後のメッセージとなりました。

 

 

2009年5月1日午後、容態が急変し家族や友人らに看取られながら息を引き取られました。

2009年5月2日午前0時51分死去。死因はガン性リンパ管症。

享年58歳でした。

 

 

2009年5月9日には、青山斎場にてロック葬が行われましたが、弔問人数は4万3千人にも及びました。

この弔問人数は戦後、日本の葬儀において2番目の参列者の多さだったそうです。

1番多い参列者だった葬儀はX-JAPANのhideさんで、偶然にもhideさんと忌野清志郎さんの命日は同じ日です。

遺影は忌野清志郎さんではなく、本名栗原清志さんとして写ったプライベートパーティーのものが使われました。これは家族の意向だったそうです。

戒名は「忌野清志郎」と芸名をそのままつけられています。

現在は、2010年4月一周忌を前に建てられた高尾霊園高乗寺にある墓で眠られています。